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横須賀簡易裁判所 昭和31年(ろ)106号 判決 1958年10月16日

被告人 三浦義明

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は「被告人は横須賀市谷戸、浦賀造船所に勤務し同造船所の本工場と分工場間の工員輸送用定期客船叶丸(一六、六二重量瓲)船長にして操舵その他同船の運航業務に従事するものなるところ昭和三十一年二月十七日午後三時三十分頃分工場より本工場に同船を運行し来たり乗客を下船せしめる為本工場ドツク入口岸壁繋留中の曳船三浦丸に接着せんとしたのであるが斯る場合舷側に乗客が佇立して居れば之を両船で挾圧せしめる等の事故を惹起することあるは容易に予測し得るところであるから乗客の状況に留意し之を船室に退避せしめる等適切なる措置を講じ事故を未然に防止すべき業務上必要なる注意義務あるに拘らず之を怠り漫然室外に乗客の佇立する者なしと軽信し接着を開始した為折柄叶丸右舷側に佇立中の同社工員石渡富夫(当十八年)を叶丸客室屋根に三浦丸船首防舷材との間で挾圧せしめるに至り因て同人を同日午後四時十分浦賀造船所病院に於て内臓皮下破裂により死亡するに至らしめたものである」というのであるが、

一、被告人が叶丸船長として昭和三十一年二月十七日午後三時四十分頃浦賀造船所川間分工場から同本工場に乗客十名位を乗せて叶丸を運行して来た事実、

二、被告人が同船を本工場ドツク入口岸壁に繋留中の三浦丸に接着する際、同船操舵に於て操舵中であり、同船甲板員南谷佐五郎は同船後部甲板にあつて接着準備中であつた事実、

三、被告人は、叶丸が三浦丸え約百米の海面に達したとき、本工場西側岸壁に繋留中のジロー号が行つてる繋留運転によつて生じた時速三浬位の排水流が、三浦丸の方向にも流れておるのを、叶丸進路前方約七、八十米先に発見し、叶丸の速力を時速六浬から半速に落し、後退を命じ、三浦丸右舷船橋付近に、叶丸の船首部を殆ど停止の状態で前記時刻頃接着させた事実、

四、右接着直後叶丸の船尾部がジロー号の排水流の為、三浦丸右舷船首部に押しつけられた事実、

五、その際叶丸客室の右舷外側通路に佇立していた乗客石渡富夫が右客室屋根ベリと三浦丸右舷船首部防舷材との間に挾圧された事実及び

六、右石渡は、この挾圧の結果同日午後四時十分浦賀造船所病院に於て内臓皮下破裂によつて死亡した事実

は、当公判廷に提出された全証拠によつて認定できる。

そして本事故発生前叶丸客室右舷外側通路には被害者石渡及び氏名不詳の乗客一名の両名が佇立していたことは、小泉留吉の証言によつて認められるが、被告人は之れを目撃していないこと、及び同人が川間分工場出発後その航行中に何人にも事故防止の注意を与えていなかつたことはその供述から窺われるところであるけれども、

イ、被告人がジロー号の排出した排水流を発見してから三浦丸に接着する迄の間(時間にして一分間以内、距離にして百米位)この排水流の影響を慮り安全航行を計る為軽々に操舵席を離れ得ざる立場にあつたであろうこと及び排水流発見後速力を半速に落した位置に於ては叶丸(船体の長サ一三米五二)がこの排水流に進入するのを回避することは技術的に不可能であつたであろうことは保田立男の経験上及び技術上の見地に基く証言から推論するも認めざるを得ないし、このジロー号の繋留運転が事故当日行われることは、工場内の告知板によつて被告人は承知していたと供述しておるが、何時行われるか、本件接着時刻頃に行われているかについて、被告人が工場側その他から知らされていたという証拠は見当らないし、

ロ、被害者石渡が挾圧された場所は船内掲示板で乗客の立入を禁じていた右舷客室外側通路内にあり、本工場及び分工場発航の都度船長或は甲板員から口頭で立入禁止について乗客に注意を与えていた慣わしであつて、事故発生直前川間分工場発航の際も同様であつたであろうことは、検証調書(昭和三十二年二月十三日の分)、小泉留吉及び南谷佐五郎の証言並に被告人の供述から窺われるところであり、

ハ、又この被害者が挾圧された客室右舷外側通路は操舵室の後方にあり、操舵者は操舵し乍らの姿勢では乗客がこの通路に佇立しておるのを目撃出来ない処であること及び操舵中の操舵者と甲板員或は乗客と如何なる場合にあつても又何時でも有効に利用できる相互連絡の物的施設の見当らないことは右検証調書、右南谷の証言及び被告人の供述により認められるところであり、又事故発生前本件通路に乗客が佇立しておることを被告人が他から知らされていたという証拠は見当らないのである。

以上の諸情況を綜合して按ずるに本事案に於ては本件事故の発生を防止する為、被害者又は乗客一般えの直接の注意方を或は甲板員に対し乗客え注意の指示方を、その他適切な措置を講ずることを被告人に対し求めるも、その実行はこれを期待することは出来難いところではないかと思われ、その間に注意義務について被告人に業務上の過失があつたとは認められないし、他に過失があつたという証拠も見当らない。

即ち本被告事件については犯罪の証明がないということに帰する。

よつて刑事訴訟法第三百三十六条後段の規定に基き主文のとおり判決する。

(裁判官 寺嶋広文)

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